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2007年2月16日 (金)

高松城址公園を訪ねて

高松城址公園

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織田・毛利軍の配備図と水没区域

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清水宗治の辞世の歌碑

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清水宗治の首塚

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法事を終えた後、レンタカーで、今は岡山市に編入されている、備中高松城址公園へ行った。

実家から、車で1時間ほどの距離にある、この歴史上有名な城跡が、こんなふうにきれいに整備されていたとは知らなかった。吉備の平野に、広大な歴史公園が完成されたのは、平成5年のことだという。

ここに立ってみると水攻めの、奇抜な作戦が成功したのがうなずける。高松城は、水面との比高がわずかに4メートルという、平城だったのである。秀吉は3kmの堤を12日間で完成させ、足守川の水を流し込み、城を孤立させた。

この兵糧攻めで落城寸前のとき、秀吉は、こちらに向かっていた信長が、京都の本能寺で明智光秀に討たれたことを知る。

秀吉は、「今日中に和を結べば毛利から領土はとらない。宗治の首級だけで城兵の命は助ける」という条件を出し、毛利方の高松城主清水宗治は、これをのんで、自刃して果てた。

何百年経っても、義を重んじ、潔い最期を遂げた、優れた統治者の行為は、胸を打つものがある。

ここには、宗治の辞世の歌、『浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して』と刻まれた石碑があり、宗治の首塚もある。

このあたりは、古代吉備の国として栄えた地域であり、周辺には、吉備津神社、最上稲荷、国分寺などがあり、文化財、史跡の宝庫である。

このような歴史の大舞台が、一望のもとに展開されている場所に佇んでいると、はるか戦国時代の出来事が、今の時代にしっかりつながっている、という実感が湧いてくる。

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